被爆のことはアメリカの軍事機密だった

被爆のことはアメリカの軍事機密だった

戸坂村で半年経ってから、山口県の柳井という町の郊外に移りました。軍隊の古い兵舎を一つもらって病院にして、治療を始めたんです。山口県には、逃げてきていた被爆者がいっぱいいたんです。その中に自分は後から救援に入ったという人がいっぱいいて、その人たちが言う訴えが、体がだるくて動けないというのが共通だったんです。どこも何とも悪いところがない、検査をしても診察をしても。「だるい」。今から思うとそれが内部被ばくの共通症状です。十年たっても、二十年たっても、ずーっと何ともなかった人が、二十五年くらい経ってパッと現れるんですね。ある日突然だるくなって、今まで元気で働いていた人が働けなくなって、お医者さんに行ったら、何でもない、どこも悪くないと。何度診てもらっても、そう言われるけれど、自分はかったるくて動けない。仕事ができないからクビになっちゃう。そういう人が日本中にたくさん出てきました。広島と長崎の人が、みんな全国に散りましたから。

マッカーサーが日本を占領して、被爆者について最初に行ったことは、「原爆の被害を受けた人はたくさん死んだり、火傷もしたり、病気で死んでいる。今でも病院で苦しんでいる人がたくさんいる。その人たちの被害は全部アメリカ軍の秘密である」。軍事機密なんだと。「だから、皆さんは気の毒だけれども自分が経験した被害については、一言もしゃべってはいけない。それに親兄弟にもしゃべってはいけない。それからお医者さんや学者は患者が来れば診けゃならん、見るのはいい。しかし、診た結果を複数の医者で研究したり論文を書いたり、どこかに発表したりすることは一切いけない。これに違反した者は、アメリカ軍が重罪に処す」と。占領軍にそう言われたら、おっかないから誰もやりません。それがあったから、日本の国では被曝に対して誰もものを言わなくなったんです。広島の大学も長崎の大学のお医者さんも、被爆者を診ました、病院に来るから。でも、絶対にしゃべれない。書くこともできない。だから今も日本の学界には広島・長崎の原爆について医学論文が一つもないんです。こんな国はありません。

そのうちにアメリカが広島と長崎にABCCという研究機関を作って、そこに広島と長崎の被爆者を集めて検査をして、血液だの、ウンコだの、オシッコだのを採ってね。火傷をしていると、その部分を切り取って顕微鏡で調べる。つまり、モルモットにしたんです、被爆者を。アメリカ軍は七年たって帰ったんです。日本は独立したわけでしょ。その時からみんなやればいいんじゃないですか。ところが安保条約という軍事同盟を結んだんです。日本の国民を、アメリカの核兵器によってソ連の攻撃から守ってもらう、という約束をした。だから、アメリカの核兵器の不利になるようなことは一切やってはいけない。今度は日本政府の命令が出て、大学の先生も開業医も診ることは診るけれど、後のことについては何も書かないと。

「わずかな内部被ばくは無害だ」とアメリカ
内部被ばくという言葉を、アメリカは使わなかった。体の中へ放射能を取り込んで病気になった人は、その放射線の量はほんとにわずかだから、全然無害で、病気なんかを起こすことは全くないと。国連に対しても、日本に対しても、そういう方向で被爆者の対策をしろと。だから日本政府は原爆で内部被ばくをしたという患者を、十二年間全く無視して相手にしなかった。1954年に、アメリカがビキニで水爆実験をして、第五福竜丸が被ばくして、無線長が亡くなって大騒ぎになった。マグロまで取れなくするって、国民が怒ってね、核実験反対という署名を、あっという間に3,000万人分も集めたのね。その時、日本人は、初めてアメリカに怒ったのです。それで死刑になってもいい、殺されてもいいというので、みんな署名をやったのです。そのおかげで、それまで見捨てられていた被爆者のことが問題になって、日本政府は自分で届け出た人だけですが、初めて被爆者に被爆者手帳、日本中どこへ行っても、広島か長崎で被爆したことが分かる身分証明書を、十二年経って出した。それまでの被爆者は飢え死にです。私が東京で診た被爆者はほとんど、配給手帳をもらえない、仕事もないので飢え死にする。

日本人でいながら日本政府は助けない、アメリカに遠慮してね。被爆者を診ない。心無い日本人は被爆者差別、あれと付き合うな、病気がうつる。そんな馬鹿な話をしてね。そこへもってきて被爆者の方は、占領軍からしゃべるなといわれてしゃべらない。だから、被爆をした人がどんなに苦しんでいるかというのを周りは全然知らないで、付き合うなという差別を、日本中でしたのです。これがアメリカが作った殺し方。戦争が終わって平和になったのに、被爆者が首をくくって死んだり、飢え死にしたりするのを、みんなで診ていたという十二年間です。

放射能が、福島原発の事故で日本中に
原子炉というのは、中に放射能がいっぱい詰まっています。チェルノブイリ原発では、それがボォーンと爆発して、放射能が空気中に広がって、かなり広い範囲の人がそこに住めなくなって、立ち退きをした。今、事故から二十五年目ですね。そういう人の中から、ガンと白血病がどんどん出ています。福島の原子炉は爆発していないの。ただ、ぶっ壊れ方がチェルノブイリとは違うけど、シューシュー、シューシュー、放射能を出しているの、今も。もう大変な量が出ています。広島も長崎も一回こっきり。チェルノブイリも一回こっきり。福島はいつまで出るか。出る放射能の量もわからないんです。福島から出た放射能は、風に乗って方々に行くんです。今、日本中で、まったく放射能に縁がない、心配ないというところは、どっこいありません。皆さんは、放射能というと、今の福島原発のことを心配しているわけです。ところが原発という工場は、放射能を漏らさないで電気を起こすということは、絶対にできないんです。普段から洩らしっぱなしなんです。

これは世界中の原発もみんなそうです。そこで、どれくらいまでなら出してもよいというのを、国際放射線防護委員会というのが決めているんです。何ミリシーベルトまでならいいよと。これ、いいわけないんですよ。たとえ一ミリシーベルトでもダメなんです。でも、そんなことを言ったら原発の営業ができないから、これくらいならいいことにしようと、勝手に決めているんです。日本の五十四の原発は放射能を、今までずーっと出してきているんです。普段皆さんは生活しながら、今までその放射能で被爆してきたんです。いいですか!

あなたは、内部被ばくのことを知っていますか

四日目の朝、火傷でない死に方が
最初の晩と二日目いっぱいは間違いなくみんな火傷で死んだんだと、そう思い込んでいました。学校で習った時に皮膚が三分の一以上焼けたときは死ぬ、助からないと。見たところ三分の一どころじゃない、半分くらいは焼けている。一目見て、ああ、この人はダメだなと。それが息を引き取るから、みんな火傷で死んだんだと疑わない。ほかの医者もみんなそう思っていました。ところが、得体のしれない異変が起きてきました。我々が今までに見たこともないし、教科書にも載っていない症状でした。火傷はしているけれど、別の症状が出てきたんです。四日目の朝でした。突然看護婦が、「軍医殿~、熱が出ました!」と呼ぶんですね。火傷や怪我が比較的軽くて寝転がっていた人が、まず、40度を超す熱を出す。そういう人の扁桃腺を診ると、ウワーというくらい臭いんです。これは医者にしかわかりませんが、人間の生身が腐っていくときの臭いなんです。壊死です。扁桃腺も咽頭の粘膜も真っ黒で腐っている。一目見て腐敗です。まだ生きているのだけれど、口の中だけ腐っているんです。

熱が出るとすぐに鼻や口から血が出てきて。みなさん。アカンベーをすると赤いところがあるでしょ。
そこからも血が出ます。後から眼科の医師にそんな眼病があるかと聞くと、そんなものは無いと。その当時寝ていた人は、みんな目から血を出していました。思わずびっくりして、何が起きたのかと。どうしていいかわからない。うろうろするうちに、ついにはお尻、肛門から血が出る。女性は前のほうからも出る。むしろを敷いて寝ているんですが、そのむしろが血の海になるんですね。吐血、下血の大出血です。患者はあちらに三人、こちらに五人と伝染病のように多発しました。そのうち、「お迎え」といわれて、すべての患者から恐れられた不気味な紫色の斑点、医学の言葉で紫斑といいますが、焼けてない肌に紫斑が見られたのもこのころからでした。もう少し経つと、特有の脱毛が起きてきます。今出ている教科書に、原爆の急性症状について脱毛という言葉が書かれていますが、決して脱毛ではありません。頭の毛を一本抜いてみると、根元に白い肉がついています。

毛根細胞といって毛の一番大事な勢いの強い細胞です。細胞分裂して毛が伸びるんです。こういう細胞が放射線で一番最初に殺される。だから、毛は毛穴に突っ立っているだけで、下がカラッポですから、触るとスルッと取れちゃうんです。頭はツルツルです。こういう毛の抜け方なんて見たことがない。恐ろしいですよ。男は毛が手についてきても気にすることはないです。女の人は頭に触っただけでけが半分取れちゃうんです。もう息も絶えたえで、ものも言えない人がそれを見た途端、ウワーと泣き出して、その取れた毛に手を当てて「私の毛が~」と泣くんです。みんな泣くんです。私は28歳の男です。女性が頭の毛が取れて、あんなにも悲しいということが分からなかったです。死にかかっているのに、頭の毛なんてどうでもいいじゃないか、何で?と。発熱、口内壊死、出血、紫斑、毛が取れる。それだけ症状がそろうと、一時間も経たないうちにみんな死んじゃうんです。医師たちが聞いたことも見たこともない、そういうような得体のしれない異様な症状が起きだしたんです。

医師たちには病名は分からなかったんですが、「ピカを見た被爆者はこういう恐ろしい症状で死ぬ」ということだけは強く印象づけられました。爆心地から等距離で被爆したものは、同じ放射ん量を浴びていたために、同じころに発病して、同じころ死んでいくということを、十年も経ってから知ったんです。これが放射線の急性放射能症だったんですね。そういう認識を一貫して持っているのが、ヒロシマを経験した臨床医の立場です。当時は、まったく謎でしかありませんでした。

異変はピカに遭わない人にも
五日、六日目ぐらいだったと思うんですが、苦しい中で必死に訴える人がいるんです。「軍医殿、わしは何で死ぬんですか!わしはピカを浴びとらんと。後から市内に入ったんじゃ」と。原爆が爆発した後に、広島にいた肉親や友人を探すために広島市内に入った人や、軍隊の命令で救援のために入った警察官や消防の人が大勢いるんですね。そのひとたちに、ピカにあった人と同じ症状が現れ出したんです。擦り傷やなんかはありましたが、焼けていないのに同じ症状で死んでしまう人もあって、症状の出方はピカにあった人と比べると穏やかな感じでしたが、発熱、口内壊死、出血、紫斑、毛が取れるなどというのは全く同じでしたから、初めのころは伝染病ではないかと恐れられました。私は内緒で解剖して腸管を調べてみて、伝染病じゃないことは分かっていたんですが。医者として、爆弾が原爆だということは、たしか一週間くらいは知らなかったと思います。ただ、あの爆弾を浴びた人は、こういう症状を出して死んでいくということが、多くの人を診た経験で分かってからは、私たちは、死亡診断書に「原爆病」と書いていました。戸坂村では、医者らしいことはほとんどできないまま、多くの人が見る見るうちに死骸に変わっていきました。

奥さんの胸に紫斑が出て
松江から旦那さんを探しに広島に来て、市内を一週間探し続けていた奥さんが、私がいた戸坂村で旦那さんにばったり会ったんですね。前の年に結婚して、県庁勤めの旦那さんと広島で新婚生活をして、奥さんは七月に出産するために実家の松江に帰っていた。八月六日に、広島が特殊爆弾で相当な被害が出たと知って心配になり、生まれた子をお母さんに預けて探しに来たという。重傷者が入っていた土蔵に寝ていた奥さんに気がついて、ちょっと診たところ風邪くらいに思って、「すぐ治りますよ」といって薬を渡しました。次の日も、次の日も見に行くと寝ていましたが、四日目に、奥さんの胸に紫色の斑点が出ていてびっくりしました。そこで初めて詳しく話を聞いたわけです。どうして紫斑が出たか分からない。変だな、変だなと思っているうちに、だんだんだんだん症状が重くなっていって、最後は吐血をし、毛が取れてなくなりました。大腿骨の骨折で隣に寝ていた旦那さんは、いよいよ難しいとなったら、奥さんの名前を呼んで、しがみつこうとする。周り中が本当に泣きました。なぜ死ぬのか、当時わかる人は誰もいなかったんです。戸坂村での一番の印象です。

恐ろしい目が、人間の目に

恐ろしい目が、人間の目に
今でも忘れられない人がいるんです。それは目を逸らしそこなった人のことです。目が合っちゃた以上逃げられない。後から聞くと二十歳の兵隊です。私がしゃがむと、私の目をじっと睨むように見るんですね。怖い目です。どこかに触って何か言ってやりたい。全部焼け爛れてみるも無残な顔でした。触るところがありません。一生懸命見ていたら、左のほっぺにまるく焼け残ったところがあったんです。私がそこに指をあてて、何か言ったんですね。しっかりしろとか何とか。そうしたら、その恐ろしい目がすーっと柔らかくなって、人間の目に変わったんです。何か言いたそうだなと思ったら、頭がかくんと落ちて息が絶えたんです。私はその人の目の変化が焼き付いていて、いつでも思い出す。今でも夢を見てうなされます。これはどういう目なのか。さっきまで元気で死ぬとは思っていない自分が、ピカッと光って、ドシャとたたきつけられて、気が付いてみたら、周りにいる人間はお化けみたいだった。

「あんたも血が出ている」といわれてびっくりして触ると、血が出ている。だから、自分が何でこうなったのか、というのが分からないんですね。分からないまま死んでいくわけですから。死ぬというのは非常に怖い。それでその人は私に触ってもらって、ほっと和んだ時に亡くなったと思うんです。そういう人がいっぱいいて、みんなそういうふうに死んでいったんです。私はその時以来、たくさんの死骸をみましたが、人間があんなにも無残に殺されていくということの中で、何もできない医師というものの本当の情けさを、毎日味わっていました。

四日目の朝、火傷でない死に方が
最初の晩と二日目いっぱいは間違いなくみんな火傷で死んだんだと、そう思い込んでいました。学校で習った時に皮膚が三分の一以上焼けたときは死ぬ、助からないと。見たところ三分の一どころじゃない、半分くらいは焼けている。一目見て、ああ、この人はダメだなと。それが息を引き取るから、みんな火傷で死んだんだと疑わない。ほかの医者もみんなそう思っていました。ところが、得体のしれない異変が起きてきました。我々が今までに見たこともないし、教科書にも載っていない症状でした。火傷はしているけれど、別の症状が出てきたんです。四日目の朝でした。突然看護婦が、「軍医殿~、熱が出ました!」と呼ぶんですね。火傷や怪我が比較的軽くて寝転がっていた人が、まず、40度を超す熱を出す。そういう人の扁桃腺を診ると、ウワーというくらい臭いんです。これは医者にしかわかりませんが、人間の生身が腐っていくときの臭いなんです。壊死です。扁桃腺も咽頭の粘膜も真っ黒で腐っている。一目見て腐敗です。まだ生きているのだけれど、口の中だけ腐っているんです。

熱が出るとすぐに鼻や口から血が出てきて。みなさん。アカンベーをすると赤いところがあるでしょ。
そこからも血が出ます。後から眼科の医師にそんな眼病があるかと聞くと、そんなものは無いと。その当時寝ていた人は、みんな目から血を出していました。思わずびっくりして、何が起きたのかと。どうしていいかわからない。うろうろするうちに、ついにはお尻、肛門から血が出る。女性は前のほうからも出る。むしろを敷いて寝ているんですが、そのむしろが血の海になるんですね。吐血、下血の大出血です。患者はあちらに三人、こちらに五人と伝染病のように多発しました。そのうち、「お迎え」といわれて、すべての患者から恐れられた不気味な紫色の斑点、医学の言葉で紫斑といいますが、焼けてない肌に紫斑が見られたのもこのころからでした。もう少し経つと、特有の脱毛が起きてきます。今出ている教科書に、原爆の急性症状について脱毛という言葉が書かれていますが、決して脱毛ではありません。頭の毛を一本抜いてみると、根元に白い肉がついています。

毛根細胞といって毛の一番大事な勢いの強い細胞です。細胞分裂して毛が伸びるんです。こういう細胞が放射線で一番最初に殺される。だから、毛は毛穴に突っ立っているだけで、下がカラッポですから、触るとスルッと取れちゃうんです。頭はツルツルです。こういう毛の抜け方なんて見たことがない。恐ろしいですよ。男は毛が手についてきても気にすることはないです。女の人は頭に触っただけでけが半分取れちゃうんです。もう息も絶えたえで、ものも言えない人がそれを見た途端、ウワーと泣き出して、その取れた毛に手を当てて「私の毛が~」と泣くんです。みんな泣くんです。私は28歳の男です。女性が頭の毛が取れて、あんなにも悲しいということが分からなかったです。死にかかっているのに、頭の毛なんてどうでもいいじゃないか、何で?と。発熱、口内壊死、出血、紫斑、毛が取れる。それだけ症状がそろうと、一時間も経たないうちにみんな死んじゃうんです。医師たちが聞いたことも見たこともない、そういうような得体のしれない異様な症状が起きだしたんです。

医師たちには病名は分からなかったんですが、「ピカを見た被爆者はこういう恐ろしい症状で死ぬ」ということだけは強く印象づけられました。爆心地から等距離で被爆したものは、同じ放射ん量を浴びていたために、同じころに発病して、同じころ死んでいくということを、十年も経ってから知ったんです。これが放射線の急性放射能症だったんですね。そういう認識を一貫して持っているのが、ヒロシマを経験した臨床医の立場です。当時は、まったく謎でしかありませんでした。

生き死にを分けるのが私の仕事に

生き死にを分けるのが私の仕事に
戻ってきた戸坂村は、市内から北に向かうと初めにある村ですから、村へ入る道には、火傷をした人がいざってくる、歩いてくるでいっぱいでした。死骸もありました。小学校に行ってみると、校庭には一目見ただけでだいたい1,000人くらいの被爆者が、うつ伏せになっています。そこに立ってじーっと見ていると、まったく動かないのがいくつもあるんです。死んでいるわけです。その中に入って、たった一人で俺に何が出来るのか、途方にくれて立っていると、何が起きたかわからずに困り果てた村の幹部たち、村長、助役、お巡りさん、お寺の坊さん、消防の親方たちが、私を見つけて走ってきて、「肥田先生、いいところにきてくれた、何とかしてつかぁさい」って。私のヒロシマは、そこから始まったんです。その晩、人口2,500人の村へ入った被爆者は6,000人、三日目の朝には27,000人になったんです。これは村の記録に書いてあります。その日の夜、偶然、医者がそこへ集まったんです。

私を入れて四人いました。「何をするか!」。「聴診器を持っている奴は、死ぬとこだけは聴診器を当てて確かめろ!持っていないお前は、寝ている中に入って行って、生きているのと死んでいるのとを分けて、ダメだというのを、連れて行った村の人に伝えて、担架に乗せて運んでねらえ!」と。僕は聴診器を持っていなかったので、生き死にを見分ける役をやらされたんです。それが悲しいですよね。辛いですよね。それは、診察をする場所を作るためでもあったんです。ざーっと見ると動かないのがいますから、めをつけておいて、そこへ向かって真直ぐ歩くんです。足元にはまだ生きている人が寝転がって、私を睨みつけます。すごい目で。それは、自分の命がもう危ない、苦しい、痛い、それから寂しい。それに怖い。いろんな感情が死にかかっている人の最後の意識ですから、体は動かないので、眼だけで私に訴えるんです。

獣みたいな目です。とても人間の目とは思えない。私が歩くと、みんな何とかしてくれという目で。私はその眼をそらしながら、動かない人のところに行かなければならない。その時、戸坂村には若い人はいません。中年の婦人、青年、男は全部広島へ動員されて、広島で被爆したんです。だから村に残っていたのは、じいさま、ばあさまと子供だけなんですね。じいさまを二人連れて動かない人のところに行って、生きているのか、死んでいるのかを調べて、この人はダメというと、じいさまはそれを担架に乗せて持っていくわけですね。一晩中やっていました。

アメリカ軍が原爆を投下

アメリカ軍が原爆を投下

私は、原爆が落ちた86日午前815分に陸軍病院にいれば、当然死んでいました。原爆が落とされる日の朝の早朝2時ごろ、非番だった私は、陸軍病院で寝ていました。たまたま一度診察させられたことのある心臓弁膜症の6歳の男の子が、発作を起こしたというので、その子のお爺さんに叩き起こされて、広島から6キロ離れた戸坂村へ往診に来ていて助かりました。その子が私の命の恩人です。子供の応急処置が終わってから、その子の隣で仮寝をしていたのですが、寝過ごして朝8時に目を覚ましました。子供がまた発作を起こすといけないと思って、鎮痛剤を注射しておこうとしていた時、開け放した座敷から雲ひとつない広島の青空が見えて、そこにB29が一機、入ってくるのが見えました。たった一機でしたから、気にも留めず、子供の手をとって注射をしようとしたその瞬間、ピカッと光って。広島の人は誰でもが「ピカドン」といいます。ピカッと、目が眩む猛烈な光です。頭が真っ白にジーンとなるようなすごい光です。

 

額とか胸元とか、皮膚が出ているところは焼けはしませんでしたが非常に熱かったんですね。驚いて、両手で目を覆って、畳の上にぺたっと伏せました。しばらくじっとしていたんですが、光のあと音もしないし、何も起きない。そおっと手を緩めて、光のきた広島のほうを見ました。爆弾が爆発した直後に火球の出来たのですが、その時、広島の方を見た私は、その火球の出来るところを見たんです。不思議なんですが、青空に、指輪を横たえたような真っ赤な火の輪が出来たんです。こんなもの生まれて初めてですから、びっくりして目を凝らしていたら、その真ん中に白い雲が少し出来て、それがどんどん大きくなって、その火の輪に中側からくっついたんです。それと同時に、それが太陽のようなものすごく大きな火の玉になったんですね。700メートルくらいの火の玉になりました。大きな太陽が目の前に出来た。同時に、火の玉の上はどんどん白い雲になって昇っていくし、火の玉の下はそのまま火柱になって、よく「きのこ雲、きのこ雲」って言いますけど、出来たときは雲の下は火柱でした。

 

非常に不謹慎な言葉ですけれど、あんな美しいものは見たことがないというくらい、とっても美しかった。火柱が輝いていて金、銀、赤、緑・・・、キラキラ、キラキラ光って、きれいな光。その下が広島で、小さな丘があって、広島は見えないのですが、そこに広島湾の海が見える。その広島市の上に火の玉が出来た。それが大きな雲の峰になるまで、私はボヤーッとしながら見ていました。きのこ雲が出来始めた最初から、私は見ていたんです。何しろ、非常に恐ろしい。初めて見る巨大なものです。それで半分腰が抜けたようになってずっと見ていました。そうしたら、きのこ雲の柱を背景にして出た黒雲が、ずーと横に広がって、それが山を越えて私のほうへ向かって押し寄せてくる。それがあっという間に、村の中に流れ込んだのです。二階建ての木造の小学校の屋根瓦が、木の葉のようにぱあっと舞い上がって、そのつむじ風に私の体はすくい上げられて、家の中を飛ばされたんです。その時、農家の屋根が剥がされて崩れ落ち、泥の中に子供と二人で埋め込まれました。

 

放射能はどういうふうに人を殺すか

放射能はどういうふうに人を殺すか

いろんなお話したいのですが、今日は放射能についてお話します。放射能と聞いても、色もないし臭いもない、形もない、目に見えない。だから、皆さんには放射能というものを自分の頭の中に想像

することすらできないのです。学者が教えてくれたのをお話しますと、放射能というのは物質の粒。小さな小さな粒です。広島に落ちたウラン、長崎のプルトニウム、ヨウ素とかセシウム137とかいろいろあります。その粒の大きさは、1ミリメートルの数十億分の一のだそうです。そういう小さな粒が一つの爆弾に組み込まれていて核分裂を起こす。ものすごい放射能とエネルギーと熱が出て、人を焼き殺す。とんでもない惨憺たる状態で人を殺す。空気中にいっぱいほうり出された放射能の粒は、水源地の水に溶けたり、あるいは、畑の食べ物にくっついたり、皆さんの吸う空気の中に混じって、体の中に入ります。

 

放射能の被害には、体の外にある放射能から、放射線を浴びる外部被爆とがあります。私たちが広島で経験した時は、外からの被爆しか知りませんでした。しかも、その放射線がどういうふうに身体をやっつけるのかまったく知らなかった今でも医学では何も分かっていません。そして、当然のことですが治療法も何も分かりません。そういう私の経験を通じて、放射能の被害は、どういうふうに人間を殺すかというお話をします。

 

 

あなたは、内部被ばくのことを知っていますか

被爆医師・肥田舜太郎さんの証言

 

あなたは、内部被ばくのことを知っていますか

 

はじめに

 

私は、肥田舜太郎という内科の医者です。

 

28歳の時に原爆に遭遇しました。たまたま広島の爆心地から6キロ離れた戸坂(へさか)村にいたため助かりました。私がいた広島陸軍病院は爆心地から350メートルで、職員、傷病兵あわせて597名がいたのですが、3名以外は即死したと聞いています。原爆という爆弾は、たくさんの人が思っているように、たった一発で町を破壊し、広島と長崎を瓦礫の原にしたという、そういう大変な破壊力の強い爆弾という一面を持っています。310日の東京大空襲や大都市で多くの人々が焼夷弾で焼き殺されました。広島・長崎でも焼き殺されました。

 

ここまでの残酷さは同じです。ウランやプルトニウムを原料にした原爆の残酷さは、戦争が終わってもずっと続いているのです。これがもう一方の面です。私は、自分の命が助かったため原爆投下直後から今日まで、正確には分かりませんけれど、内輪に見積もって6,000人くらいの被爆者の面倒をみてきました。私は、原爆の一番問題になるところは、人類がまだ経験したことのない放射能というエネルギーを、まだ何も分からないうちにそれを爆弾に組み込んで、人を殺すために使ったということが許せないのです。

 

私は医者ですから何が一番大事かというと、目の前に来た患者さんの命が何よりも大事です。ところが、被爆した人が、何故死んでいくのか、何故そういう症状が出るのかがまったく分からない。医者にとって自分に分からない症状で、しかも理由が分からずに患者が死んでいく。これくらい苦しくて悲しいことはありません。被爆者について今日まて゛、それがずーっと続いているのです。そういう意味で広島と長崎の悲劇はまだ終わっていないのです。そこへもってきて、今度、平和に暮らしていた東北で、原発がとんでもない事故を起こしました。今もまだ放射能は止まりません。止め方がわからない。つまり、一度人間のコントロールを離れた放射能はどうすることもできない。

 

電気を起こすために稼動している原発からは、毎日毎日核廃棄物が出ます。ちょうど昔、石炭を掘っていた鉱山に、廃棄物をいっぱい積み上げたボタ山というのがありましたが、そのボタ山のように、今原発では大きなプールを作って、廃棄物が、つまり使用済み核燃料が水の中に漬けてありります。水に漬けておくより他に手がない、どうすることもできない。そういう物がみなさんの平和な生活の中に、ボコッと断りもなく踏み込んできて、そして、その影響を受けた子供たち、お母さんやお父さんも、お爺さんもお婆さんも、いつ命が終わるか分からないという常態に叩き込まれているということです。