生き死にを分けるのが私の仕事に

生き死にを分けるのが私の仕事に
戻ってきた戸坂村は、市内から北に向かうと初めにある村ですから、村へ入る道には、火傷をした人がいざってくる、歩いてくるでいっぱいでした。死骸もありました。小学校に行ってみると、校庭には一目見ただけでだいたい1,000人くらいの被爆者が、うつ伏せになっています。そこに立ってじーっと見ていると、まったく動かないのがいくつもあるんです。死んでいるわけです。その中に入って、たった一人で俺に何が出来るのか、途方にくれて立っていると、何が起きたかわからずに困り果てた村の幹部たち、村長、助役、お巡りさん、お寺の坊さん、消防の親方たちが、私を見つけて走ってきて、「肥田先生、いいところにきてくれた、何とかしてつかぁさい」って。私のヒロシマは、そこから始まったんです。その晩、人口2,500人の村へ入った被爆者は6,000人、三日目の朝には27,000人になったんです。これは村の記録に書いてあります。その日の夜、偶然、医者がそこへ集まったんです。

私を入れて四人いました。「何をするか!」。「聴診器を持っている奴は、死ぬとこだけは聴診器を当てて確かめろ!持っていないお前は、寝ている中に入って行って、生きているのと死んでいるのとを分けて、ダメだというのを、連れて行った村の人に伝えて、担架に乗せて運んでねらえ!」と。僕は聴診器を持っていなかったので、生き死にを見分ける役をやらされたんです。それが悲しいですよね。辛いですよね。それは、診察をする場所を作るためでもあったんです。ざーっと見ると動かないのがいますから、めをつけておいて、そこへ向かって真直ぐ歩くんです。足元にはまだ生きている人が寝転がって、私を睨みつけます。すごい目で。それは、自分の命がもう危ない、苦しい、痛い、それから寂しい。それに怖い。いろんな感情が死にかかっている人の最後の意識ですから、体は動かないので、眼だけで私に訴えるんです。

獣みたいな目です。とても人間の目とは思えない。私が歩くと、みんな何とかしてくれという目で。私はその眼をそらしながら、動かない人のところに行かなければならない。その時、戸坂村には若い人はいません。中年の婦人、青年、男は全部広島へ動員されて、広島で被爆したんです。だから村に残っていたのは、じいさま、ばあさまと子供だけなんですね。じいさまを二人連れて動かない人のところに行って、生きているのか、死んでいるのかを調べて、この人はダメというと、じいさまはそれを担架に乗せて持っていくわけですね。一晩中やっていました。