あなたは、内部被ばくのことを知っていますか

四日目の朝、火傷でない死に方が
最初の晩と二日目いっぱいは間違いなくみんな火傷で死んだんだと、そう思い込んでいました。学校で習った時に皮膚が三分の一以上焼けたときは死ぬ、助からないと。見たところ三分の一どころじゃない、半分くらいは焼けている。一目見て、ああ、この人はダメだなと。それが息を引き取るから、みんな火傷で死んだんだと疑わない。ほかの医者もみんなそう思っていました。ところが、得体のしれない異変が起きてきました。我々が今までに見たこともないし、教科書にも載っていない症状でした。火傷はしているけれど、別の症状が出てきたんです。四日目の朝でした。突然看護婦が、「軍医殿~、熱が出ました!」と呼ぶんですね。火傷や怪我が比較的軽くて寝転がっていた人が、まず、40度を超す熱を出す。そういう人の扁桃腺を診ると、ウワーというくらい臭いんです。これは医者にしかわかりませんが、人間の生身が腐っていくときの臭いなんです。壊死です。扁桃腺も咽頭の粘膜も真っ黒で腐っている。一目見て腐敗です。まだ生きているのだけれど、口の中だけ腐っているんです。

熱が出るとすぐに鼻や口から血が出てきて。みなさん。アカンベーをすると赤いところがあるでしょ。
そこからも血が出ます。後から眼科の医師にそんな眼病があるかと聞くと、そんなものは無いと。その当時寝ていた人は、みんな目から血を出していました。思わずびっくりして、何が起きたのかと。どうしていいかわからない。うろうろするうちに、ついにはお尻、肛門から血が出る。女性は前のほうからも出る。むしろを敷いて寝ているんですが、そのむしろが血の海になるんですね。吐血、下血の大出血です。患者はあちらに三人、こちらに五人と伝染病のように多発しました。そのうち、「お迎え」といわれて、すべての患者から恐れられた不気味な紫色の斑点、医学の言葉で紫斑といいますが、焼けてない肌に紫斑が見られたのもこのころからでした。もう少し経つと、特有の脱毛が起きてきます。今出ている教科書に、原爆の急性症状について脱毛という言葉が書かれていますが、決して脱毛ではありません。頭の毛を一本抜いてみると、根元に白い肉がついています。

毛根細胞といって毛の一番大事な勢いの強い細胞です。細胞分裂して毛が伸びるんです。こういう細胞が放射線で一番最初に殺される。だから、毛は毛穴に突っ立っているだけで、下がカラッポですから、触るとスルッと取れちゃうんです。頭はツルツルです。こういう毛の抜け方なんて見たことがない。恐ろしいですよ。男は毛が手についてきても気にすることはないです。女の人は頭に触っただけでけが半分取れちゃうんです。もう息も絶えたえで、ものも言えない人がそれを見た途端、ウワーと泣き出して、その取れた毛に手を当てて「私の毛が~」と泣くんです。みんな泣くんです。私は28歳の男です。女性が頭の毛が取れて、あんなにも悲しいということが分からなかったです。死にかかっているのに、頭の毛なんてどうでもいいじゃないか、何で?と。発熱、口内壊死、出血、紫斑、毛が取れる。それだけ症状がそろうと、一時間も経たないうちにみんな死んじゃうんです。医師たちが聞いたことも見たこともない、そういうような得体のしれない異様な症状が起きだしたんです。

医師たちには病名は分からなかったんですが、「ピカを見た被爆者はこういう恐ろしい症状で死ぬ」ということだけは強く印象づけられました。爆心地から等距離で被爆したものは、同じ放射ん量を浴びていたために、同じころに発病して、同じころ死んでいくということを、十年も経ってから知ったんです。これが放射線の急性放射能症だったんですね。そういう認識を一貫して持っているのが、ヒロシマを経験した臨床医の立場です。当時は、まったく謎でしかありませんでした。

異変はピカに遭わない人にも
五日、六日目ぐらいだったと思うんですが、苦しい中で必死に訴える人がいるんです。「軍医殿、わしは何で死ぬんですか!わしはピカを浴びとらんと。後から市内に入ったんじゃ」と。原爆が爆発した後に、広島にいた肉親や友人を探すために広島市内に入った人や、軍隊の命令で救援のために入った警察官や消防の人が大勢いるんですね。そのひとたちに、ピカにあった人と同じ症状が現れ出したんです。擦り傷やなんかはありましたが、焼けていないのに同じ症状で死んでしまう人もあって、症状の出方はピカにあった人と比べると穏やかな感じでしたが、発熱、口内壊死、出血、紫斑、毛が取れるなどというのは全く同じでしたから、初めのころは伝染病ではないかと恐れられました。私は内緒で解剖して腸管を調べてみて、伝染病じゃないことは分かっていたんですが。医者として、爆弾が原爆だということは、たしか一週間くらいは知らなかったと思います。ただ、あの爆弾を浴びた人は、こういう症状を出して死んでいくということが、多くの人を診た経験で分かってからは、私たちは、死亡診断書に「原爆病」と書いていました。戸坂村では、医者らしいことはほとんどできないまま、多くの人が見る見るうちに死骸に変わっていきました。

奥さんの胸に紫斑が出て
松江から旦那さんを探しに広島に来て、市内を一週間探し続けていた奥さんが、私がいた戸坂村で旦那さんにばったり会ったんですね。前の年に結婚して、県庁勤めの旦那さんと広島で新婚生活をして、奥さんは七月に出産するために実家の松江に帰っていた。八月六日に、広島が特殊爆弾で相当な被害が出たと知って心配になり、生まれた子をお母さんに預けて探しに来たという。重傷者が入っていた土蔵に寝ていた奥さんに気がついて、ちょっと診たところ風邪くらいに思って、「すぐ治りますよ」といって薬を渡しました。次の日も、次の日も見に行くと寝ていましたが、四日目に、奥さんの胸に紫色の斑点が出ていてびっくりしました。そこで初めて詳しく話を聞いたわけです。どうして紫斑が出たか分からない。変だな、変だなと思っているうちに、だんだんだんだん症状が重くなっていって、最後は吐血をし、毛が取れてなくなりました。大腿骨の骨折で隣に寝ていた旦那さんは、いよいよ難しいとなったら、奥さんの名前を呼んで、しがみつこうとする。周り中が本当に泣きました。なぜ死ぬのか、当時わかる人は誰もいなかったんです。戸坂村での一番の印象です。